2018年2月度 定例会講演「シャンソンに人生を重ねて」

講師:水織ゆみ 氏

 

【 略 歴 】

東京・神田の生まれ。桜蔭学園高校から、慶応義塾大学哲学科美学を卒業。慶応在学中は演劇研究会に所属。卒業後、演劇・ジャズダンス・フラメンコに取り組まれた後、1987年にシャンソン歌手としてデビュー。レパートリーとするシャンソンの多くは、ご自身による訳詞で、日本訳詩家協会の理事としてもご活躍。

 

氏の講演は、「命の形を歌にして」と題する講話と一人芝居及び歌唱の3部構成であった。

 

[講 話]

<シャンソン歌手としての生き様>

プロのシャンソン歌手といっても、事務所に所属している訳でもなく、コンサートを依頼されても、演出、台本書き、交通やホテル、劇場チケットの手配、チラシ、プログラムの準備、衣装の手配、荷物出し、当日の舞台監督まで全て一人でこなします。

それでもこの30年間で、お声が掛かればギャラと言わず多少の御布施を頂いて、北は稚内から南は宮古島まで出張コンサートを開催し全国を駆け回って参りましたので、この30年間で歌行脚で出向いた地名を日本地図に朱でプロットすると日本地図全体が赤く染まる様な具合になります。また、札幌で23年間、京都で18年間、小樽では21年間とロングラン・リサイタルもさせて頂いております。

 

<生い立ち>

神田明神下で生まれ御輿を担いで育ち、食事が終わると民謡・歌謡曲の歌声喫茶になるような家庭に育ちました。

中高は桜陰、大学は慶応ですが、サークルは一貫して演劇部に所属した演劇少女でした。23才で結婚、2人の子供を育てPTAに勤しむ普通の主婦で、後々歌手になるとは思っていませんでした。

 

<ハイブリッド・エンターテイナーへの道>

私の人生の節目となったシャンソンとの出会いは、大学3年の時の三田祭前夜祭で武道館に越路吹雪さんが出演され、算盤2級のためかタイムキープを任されて、生で見たコーチャンと彼女が歌うシャンソンに魅せられてしまいました。

 

大学を卒業して,前夜祭の時にお世話になったNHK紅白ディレクターの引きでNHKに入り、1年間「歌のグランドショー」という番組の台本書きや、タイムキープのお手伝いしました。演劇、テレビの裏方、舞台台本書きのノウハウはこの時身についたと思います。

 

子育てが一段落してからは、歌・踊りの世界にのめり込んで行きました。娘時代からの憧れのフラメンコは26年間、ジャズダンスは36年間、ママさんコーラス指揮者は40年間、これまでに積んできました。

 

プロ歌手になる前哨戦の様な体験として、33才の時、フジテレビ「スターものまね王座決定戦」に出場して、越路吹雪さんの物真似でチャンピョンに輝きました。決勝を争ったのは岡崎友紀さんです。

 

38才の時、新聞の小さな記事を見てシュウウエムラ第一回シャンソンコンクールに応募しました。おにぎり二つとギターを背負って会場に乗り込み、結果は3次予選まで残る好成績?でした。ただその時、ギターで歌ったのは私だけ、他の人は格好良いピアノ伴奏で歌ってました。

コンクールが終わって側にいたピアニスト(この方大変高名なピアニストでした)におにぎり一つを差し出して、どうしたらピアノで伴奏して貰えるのですかと聞くと、ピアノ用の譜面を作るのだと、ガーン!衝撃でした。

 

それからシャンソンの猛勉強。ピアニスト三浦高広先生の教えに従い、自分の為のピアノ用譜面を作る、本に無い曲は原曲を聴いて自分で歌える訳詞を書く、マイキー譜面の書き方も覚えました。図書館を巡ってどん欲にシャンソンを聴き、新しい曲を増やしました。

 

86&88年「日本シャンソンコンクール」に出場して2回とも演技賞受賞し、第1回るたん・シャンソンフェスティバル」にて40才でプロ歌手デビューを果たしました。

 

<役者の神様 市原悦子さんとご対面>

俳優座の頃の市原さんは役者の神様だった。

オフィーリアを演じると誰よりも悲しげで、はかなく美しく胸を打つ。

私が役者の道を断念したのも神様 市原さんの存在が一因だった。

歌手になり立ての頃、歌のリハーサルの舞台の袖で神様 市原さんとご対面。

私はとっさに、「市原さんのオフィーリアの狂人の歌、真似出来るんです」と言って歌った。

 

  ♪お前のホントの恋人をどうしてそれと 見分けよか

      杖にワラジに帆立貝飾った帽子がそのしるし♪

 

市原さんは、「まあ懐かしい、でももう覚えてないけど」と仰って、その後、テープレコーダーを聴きながら歌詞カードを見つめ歌の練習をされていた姿が健気でありました。

 

<コンサート活動>

地方でコンサートを行う時は、ただ舞台の上で歌って帰るだけでは心は通いません。そこで私は早めに現地を訪れリサーチします。

洞爺サミットに際し北海道庁の依頼で記念コンサートを開催しました。

その折り、伊達市(北海道)の図書館にこもって探し出したのが、「越鳥南枝」の碑文でした。それは「戦いに破れた越の国の鳥は故郷を慕って南に巣の枝をかける」と言う故事に準え、維新政府の命令で宮城より開拓移住を命じられた伊達一族の悲哀を謳った伊達寿之 別当町長による血を吐くような碑文でした。

そこで私は、伊達市民文化会館1300人の前で、バケツに墨を入れ筆を3本輪ゴムで留めてパネルに「越鳥南枝」と書き上げました。そして赤い緋毛氈に座ってこの碑文を朗誦しました。

北海道 伊達市の市民は維新で故郷を追われた方々の子孫です。苦節130年の来し方に思いを馳せたのか、多くの方が私の朗誦を聞いて涙されていました。

 

これには後日談があり、2011年、東北大震災の2ヵ月後、私はボランティアの炊き出しで東鳴子に行きました。東鳴子は開拓民として伊達市に移住された方々の故郷の地です。80人の避難者が、口も利かず、黙々と出されたお料理を食べてました。食べ終わっても、誰も口を聞きません。そこで私は越鳥南枝の碑文を朗誦し、「皆さんはこの類い希なるご苦労をして、北海道を開拓された人々の子孫です。どうか元気を出して下さい。」と結んで、ケサラを歌いました。

 

 ♪人は裸で生まれて 裸でこの世を去ってゆく 

  何も持たずに 生まれてきたなら 何も持たずに ゆくのだろう ケサラ

  つらい人生の道だけど 素晴らしい天からのプレゼントがあるよ 愛人の優しさ

  人は全てを 無くして 初めてわかることがある 

  この世で一番大切なもの それは目には 見えない ケサラ 

  哀しみが心に充ちても 涙の雨を流したあとは 太陽が慰めてくれるさ ♪

 

シーンとなっていた部屋から怒涛の如く、声が流れ出しました。

母は津波で泥を呑んでどんなに苦しかっただろう。子供は・・・父は・・・

みんなが泣きながら、亡くなっていった人々のことを話し出したのです。

 

帰りにバス2台で避難所に帰って行く人々の涙と笑顔を、今でも忘れられません。

 

 思い出に残る海外コンサートは、イギリス エディンバラの日本総領事館20周年の記念コンサートです。

本番当日、日本から持ち込んだ衣装は京都手描き友禅、鳳凰のドレスで静々と会場を回り、歌おうとマイクを口にしたその瞬間!バン!と音がして、マイクの電源が切れたのです。

観客も私もびっくりし、これも人生と一瞬で悟り、気を取り直して、アカペラで「You raise me up」を歌いました。ふと総領事を見ると怒り顔で参事官たちを睨んでいる。

あ、これはまずいと思い、歌い終わって、とっさに「I’m sorry mike is trinbring like my haeat」とMCをしたのです。

その時、会場中が笑いの渦に包まれました。それからはマイクも復活して、コンサートは成功裡に終わりました。あの時は、部下が責任を取らされたら気の毒!という咄嗟の判断で口に出したつたない英語で笑いに変えら、胸を撫で下ろしました。

 

<水織音シャンソン教室と塾訓 >

私は東京・名古屋・京都・奈良でシャンソン教室を開き、お弟子さんを持っています。

私は、これまでシャンソンに人生を重ねて生きてきたと思っています。

その中で体験し、考え、学んだことをを元に、シャンソン・人生に臨む私なりのフィロソフィーを、お弟子さん達に塾訓として伝えております。

 

一、声は人格の響きなり。

良い声は 相手の耳に心地よく響き、水のように心にしみる。

 

二、言葉はその人の人生の捉え方、ものの見方が反映される。

相手の心に響く言葉を発するためには調和の取れた品格を養うことが肝要である。

 

三、人の心は九割が無意識である。

勉学、経験を重ね、センスを磨き、無意識の心のるつぼから意識の海へ言葉を

引き上げると、人の魅力は更なる出会いに繋がり、豊穣な人生となる。

 

四、詩は文学、声は音楽、心は哲学と心得え、この三味一体を調和させて、歌にする。

人々の心が揺り動かされ、大いなる感動が生まれた時、生きている喜びに、包まれる。

 

 

[ 一人芝居 ]                                                              

  <ロダンをめぐる二人の女>        

ロダンの内妻ローザ・ブーレとロダンの23才年下で弟子であり、モデルであり、恋人であったカミーュ・クローデルの数奇な人生の末路を、一人芝居で演じられた。

途中、シャルル・アズナブールでお馴染みの「ラ・ボエーム」(水織ゆみ訳詞)を挿入歌として歌唱された。

 

 

[ 歌 唱 ]

フォーカス・ワン メンバーへのメッセージソングとして「友よ 目覚めよ」を歌う予定であったが、CDラジカセが古くカラオケCDが音飛びしたため、アカペラで氏の訳詞による「マイウエイ」を歌唱された。

「友よ 目覚めよ」(水織ゆみ訳詞)は、氏のコンサートの最後を飾る曲で氏の十八番でyou tubeにアップされておりますので、聞いてみて下さい。

 

以上

 

(文責:若色)