「海外生活を通して学んだこと」~メキシコ・コロンビア・米国駐在から

講師:伊藤一郎氏(F1会員)

今回の講師は、甲子園球場の隣で生まれ育った、大の阪神ファンである伊藤一郎氏。

1977年(昭和52年)に三菱重工業に入社。

20代の機械事業本部時代にメキシコ・グアナファト大学に留学(1982年~1983年)、次の長崎造船所時代はコロンビア発電所建設のためアドミ駐在(1985年~1987年)、そして入社28年目にMitsubishi Power Systems Americas,Inc.ロサンゼルス事務所長として米国駐在(2005年~2007年)と3回の異国の地での体験をされた。

この歴史も文化も異なる三ヶ国での体験談をお話しいただいた。

 

<メキシコから学んだこと>

1982年から1年間国費でキシコ中部のGUANAJUATO(グアナファト)大学にスペイン語語学留学。グアナファト市は、『宝石箱をひっくり返した街』と呼ばれ、街全体が1988年ユネスコ世界文化遺産に認定されている。16世紀中スペイン人に占領、当時世界最大の銀鉱山として栄える。標高2,000m、人口8万人の内ラテン最古のグアナファト大学関係者が約3万人の大学の町だ。

この小さな町に日本からの留学生20名(メーカー・銀行・商社・外大)が生活。現地は水質が極めて悪く、死ぬほどの下痢(DIARREA)と粗食で8キロも激ヤセした。その後は“アホ(Sopa de ajo=ニンニクスープ)とバカ(CARNE de Vaca=牛肉)”で、栄養補給し、飲むのはコカ・コーラとCERVESA(ビール)だけの生活をした。

(※下痢はVengaza de Cuauhtemoc=“アステカ最後の皇帝クワウテモックの復讐”と呼ばれ頻繁にある)

 

メキシコ人はたいてい超親日家で日本人を尊敬し、一方アメリカ人は大嫌い。しかしアメリカ文化は大好きで金持ちに憧れている。メキシコ合衆国は、日本にとって重要な友好国だ。アメリカから下に見られ、高圧的に虐げられている同国にとって日本は頼りになり尊敬される国だ。

メキシコ人は“いい加減なところ”が、可愛いし憎めない人柄だ。バナナとマンゴーがあれば、ハンモックの上で生きていけると言われるように、貧しいながらも幸せで楽天的な民族だ。くよくよしないで人生に前向きな点は我々日本人も学ぶべきだ。

時間にはいい加減で、“Hasta MAÑANA(また明日)は、永遠に来ないかも”と云いながら、最後は何とか辻褄を合わせるところがメキシコ人だ。ただ余り当てにすると裏切られる時もあるのでご注意。

メキシコは今後も大切にするべき国だ、しかし過信することは禁物である。取り分けメキシコ通貨ペソは信用しないのが正解だ。1983年にはペソが1/3に切り下げられて、銀行にドルで預けていた日本人は大損(資産がペソ表示で1/3に)した。

 

その後、スペイン語を使いメキシコ人と30年以上仕事をした。三菱重工で中南米の発電プラント輸出を長年担当。メキシコの火力発電市場でのシェアは42%に達し、1992年にメンテナンス会社も設立、その後20年にわたりメキシコ電力安定供給に大きく貢献した。

色々あるがメキシコ市場は大きく、やる気のある有能なパートナーを探せれば大成功できる国といえる。

 

<コロンビアから学んだこと>

コロンビアは南米最大の要衝といえる。

太平洋と大西洋に繋がる北中南米の通路で、歴史的にも交通の要衝の地。豊富な天然資源(石炭・金・銀など)に恵まれた広大な領土。いい加減ではなく根暗だが生真面目な国民性。貧富の格差が大きく、左翼ゲリラと麻薬の温床となる。

 

コロンビアといえば、コーヒー・美人そして麻薬とテロが有名だが、赴任当時の状況は、左翼ゲリラ活動は活発化し内戦化、またコロンビア革命軍と麻薬カルテルがコロンビア政府軍と戦争中と、兎に角最悪の治安状況だった。その中で、1970年代から火力発電所の連続受注と建設が始まっていた。

1985年~1987年、コロンビアに建設中だった石炭焚き発電所(Termoguajira)建設のためグアヒラ(Guajira)発電所に単身赴任。発電所の建設予定地は、当時麻薬栽培と取引場で、事前の現場調査時には麻薬取引現場に遭遇して危うくマフィアに射殺されそうになって、幸運にも助かったこともあった。その後は軍隊が守ることを条件に工事を再開し、1987年に全プラントの引渡しを無事完了した。

軍隊に守られた「戦場」で仕事をし、まさしく人生の中で「今そこにある危機(Clear and Present Danger)」だった。

 

コロンビアは “契約は絶対!”というお国柄。

彼らはタフなネゴシエーターだ。“左手に契約書、右手にペン”、悪知恵でも屁理屈でも契約に根拠を求め議論して勝たないと敗北する。

現地は現地に任せるのが成功の鍵だ。

当時はFAXもメールも電話も通じない“僻地”での建設工事で、現地のメンバーは若くても、知恵を出して協力して考えてくれ、難関を乗り越えられた。日本からの干渉が少なく、それが人材を育てたともいえる。

同じ釜の飯を食った戦友は永遠の友だ。

苦しい時期を共にしたことは、良い思い出となり30年経っても友人だ。今も関東地区コロンビア会を毎年開催しているが、会えば三十数年前に戻り、話題は当時と一緒だ。

 

<米国から学んだこと>

2005年~2007年末まで、カリフォルニアNEWPORT BEACHに駐在。

風車ブームを見越してテキサス州EL Pasoのメキシコ国境側JUAREZ市に米国TPI COMPOSITE社とJVで風車ブレード製造会社(VienTek)を設立。当時は空前の風車ブームで、2年間で4,400億円を受注した。最盛期は2,000人のメキシコ労働者を雇用、現地での一大工場に発展した。

残念ながら、帰国後の2008年リーマンショックで風車市場が大幅に縮小し、キャンセルが相継ぎ2014年に工場閉鎖となった。

米国は巨大市場で、ブームに当たると爆発的に大成功するが、逆に堕ちるのも大きく速い! ビジネスの市場としては、非常に怖い!といえる。

 

この時のパートナーTPI COMPOSITE社のSTEVE LOCKARD社長との信頼関係が成功した最大のポイントだった。米国は厳しい市場だが、結局は良きパートナーとの“尊敬される信頼関係”が一番重要な鍵となる。

米国市場はアップダウンが大きく動きが激しいが、市場の見極め“MARKETING”  とスピード“SPEED”感のある判断と会社や上司のブレない支援“COMMITMENT”  があると大成功するチャンスがある。 

本邦からのMISSION を“忠実にやる気があり、情熱のある人材”の人選と投入が成功の鍵となる。

結局のところ“人”が全てだと言える。

 

また、長く勤務された第二の故郷「長崎」の世界遺産観光のお勧めがあった。

①   明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業

②   長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

 

そして最後に、1985年(昭和60年)と2005年(平成17年)の阪神タイガース優勝を日本で経験できなかったのが残念だったが、来る2025年(令和7年)の優勝に期したいと締め括られた。

                                          (文責:立山 秀)