西村 時雄 氏(当会会員、株式会社中陸代表取締役社長)
西村時雄さんは、高知県の中学2年生の時に初めて船乗りになりたいと思い、卒業したら家から近い弓削商船高等専門学校に行こうと思っていた。しかし、父親から大学に行けと言われ県立中村高校に進学した。中村高校では柔道部に入部し柔道一筋の高校生生活を送っていたが、海への夢は捨てきれず、国立清水海員学校に入学した。
そして、卒業後日本郵船に入社し、船員としての第一歩を踏み出した。
講演に先立ち、新型コロナウィルス問題でクルーズ船の問題が大きなニュースになっていることについて船員の経験もある西村さん曰く、船は沈没しないよう気密性が高く、おまけに空調は一括空調なので、空調ダクトを伝って感染症が極めて蔓延し易い環境であり、船員時代は風邪を引いたら船には乗るなときつく言われていたほどであったとのこと。今回のクルーズ船も一時外洋に出る機会があったときに窓をフルオープンにし空気を入れ替え、また乗客も出来るだけ早く解放した方が良かったのではないかと。
【印パ航路】(1971年)
さて本題に入り、西村さんの船員生活は5年間ほど続いたとのことであるが、先ず最初は、日本郵船のなかではドサ回りといわれていた印パ航路の全長150m程度の「オセアニア丸」から始まった。35~36名の二人部屋での生活であったが、船の中は職階級の厳しいところで、職員と部員の格差が歴然としていて、皆の寝ている間に部屋、風呂、便所、通路などを掃除する生活であった。しかし、それでも西村さんの2~3年前の先輩たちの時代まであったボーイ長制度に比べればマシと云われていたとのこと。
基隆(台湾)/香港/シンガポール/コロンボ/ボンベイ/カラチ/コーラムシャー(イラン)/バスラ(イラク)/クウェートを回った。
そのころ香港では、荷役は小型のジャンク舟が活躍しており、彼らは海に落ちないように自分の体にロープを巻き付けて荷役作業をしていた。
とにかく猛烈に暑い航海で、日影のところでも45℃ほどあり、洗濯物を船尾で2~3回振ったら乾くくらいであった。
【地中海航路】(1971年)
続いて、一番思い出深い 地中海航路の「磐城丸」に乗った。スエズ運河は未だ開通しておらず、香港からインド洋経由アフリカを回りジブラルタル海峡(アフリカとスペインの間)を通り、先ずバレッタ(マルタ島)に入港した。その後 トリポリ(リビア)/アレキサンドリア(エジプト)/ベイルート(レバノン)/トリポリ/トレノ(シリア)/ラタキア(シリア)/コッパー(ユーゴスラビア)/ファマガスタ(キプロス)/イズミール(トルコ)/イスタンブール/ピレウス(ギリシャ)/サロニカ(ギリシャ)/マルセイユ(フランス)帰路パナマ運河経由で横浜に戻った。
西回り世界一周航路であった。
トリポリでは、博物館を訪れた日、偶々年に一日だけ開く展示室に入ることが出来たが、そこは奇形の展示室であり、一つ目人間のホルマリン漬けを見たときは衝撃を受けた。
アレキサンドリア港に停泊した当時は、第4次中東戦争の最中であり、水雷の爆発音と振動に最初はびっくりしたが、それも2日ほどすると慣れてしまった。
アラファト議長にも会って話をしたことがある。偶々日本人の女性が無報酬で働いているというパレスチナゲリラの病院を訪れたとき、ちょうどアラファト議長の運転手が銃撃を受け、その病院に猛スピードで駆け込んできたが、そのジープにアラファト議長が乗っていた。握手し一言二言話をし、“Good luck! “と声をかけられた。
二人の日本人女性の内のひとり、自分は新左翼だと名乗る中野マリ子さんに、ゲリラのアパート連れていかれたことがある。そこには壁一面にエルサレムの絵が掲げられていた。
そのとき、今も続いているイスラエルとパレスチナの争いの解決法は、エルサレムを二分してそれぞれ分け与える方法しかないという思いに至った。
彼女とはその後暫く文通をしていたが、マルクスの「共産党宣言」を読めと言われた。西村さんを共産主義者にしようとしていたらしい。
帰路通ったパナマ運河は、土砂降りの大雨が降り、まさに今の日本の異常気象のような気候であった。その大量の雨水によってガツゥン湖(標高26m)の水を流すことによるパナマ運河の水利機構で出来ていることがよく分かった。
(大西洋と太平洋の水位差(大西洋の水位が太平洋よりも70cm高い)
【欧州航路】(1972年)
その次には、同じ「磐城丸」で欧州航路に乗った。この時は、航海士の等級によって勤務時間が異なり、休みを利用してルアーブルから6時間ほどバスに乗ってパリに行って観光したり、ハンブルグの酒場で指揮をしたり、楽しい航海であった。
ハンブルグでは1,000人規模のビアガーデンに行き、金を払うと舞台の上で指揮棒を振らせてくれ、「君が代」や「さくらさくら」をドイツ人と皆で歌ったこともある。
しかし、自分が乗っていた船ではないが日本郵船の「山城丸」がラタキア沖でミサイルを船腹の真ん中に受けた事件もあった。しかし「山城丸」は運よくその当時は船尾側に居住区がある船舶が一般的であったため、船の真ん中には偶々積荷が積まれており乗船者は無事であった。その助かった船員と後日の本船で乗り合わせたが、前歯が爆破時の破片で欠けていた。
欧州航路の寄港地は、香港/シンガポール/ウェルバ(スペイン)/ルアーブル(フランス)/アントワープ(ベルギー)/ロッテルダム(オランダ)/ダブリン(アイルランド)/アムステルダム(オランダ)/ブレーメンハーヘン(ドイツ)/ハンブルグ(ドイツ)/コペンハーゲン(デンマーク)/ロッテルダム(オランダ)/シンガポールで給油、という航路であった。
【アフリカ航路】(1973年)
その後、アフリカ航路の「伊勢丸」に乗り、香港/シンガポール/ロレンソマルケス(モザンビーク)/ダーバン(南ア)/ケープタウン(南ア)に行った。
【三国間輸送】(1974年)
次に乗ったのが三国間輸送の全長260mのタンカー「龍田丸」であった。寄港地はカーグアイランド(ペルシャ湾に浮かぶイラン領の島で世界最大の石油輸出港)/ドバイ/ゼノア(イタリア)/ラスパルマス(スペイン)/ドバイ/日本。
【紅海航路】(1975年)
最後に乗った船は「能登丸」での紅海航路であった。
乗船命令というのは、当時は電報で来る。「ノト〇ヨコハマ 17ヒアサ・・・・」と。
寄港地は、ジェッダ(サウジアラビア)/ジブチ(東アフリカ)/ホデイダ(イエメン)/アカバ(ヨルダン)。
【操舵について】
西村さんは大型船舶の甲種一等航海士の資格を持っている。
やはり、一万トン級の操舵は比較的簡単であるが、大型の数十万トンになると難しい(特に離着岸時)。
モザンビーク海峡では大シケを経験したが、シケの時は船首を波頭に向け10度傾けて航海する。波頭にまともに向かうと船体が折れる危険がある。又船尾から風を受けると前につんのめり沈没の恐れがあるため。
冬場の太平洋はシケる。特に千葉沖200~300km沖合が最も危ないところといわれている。日本の5万トンクラスの船も今までで2隻ほど沈没しており、船長は一人殉死している。
【船長とは】
船の上では絶大なる権力を持っており、懲戒権があり、死者が出た際は水葬してもよい。1970年以前は人命と積荷の安全を確保した後でなければ、船を離れることが出来なかった。
(最後離船義務)
【海上交通法規】
大きく3つしかない。(大洋航海中)
- 行会い船:互いに針路を右側にとる。
- 横切り船:他船を右舷に見る船は避(よ)ける。(避航義務船)他船を左舷に見る船は進路を保持しなければならない(針路保持船)
- 追越し船:安全を十分に確保するように追い越す。右舷側でも左舷側でもよい。
【緯度の求め方】
(北半球では)北極星の高度=自分のいる場所の緯度
(南半球では)南十字星の高度=自分のいる場所の緯度
手のひらを、親指を上にして水平に広げると指一本が1.5度である。
経度の判定は難しく、船の進んだ距離と時間から割出す。
最後に「港湾とやくざは関係があるかと問われれば、ある」との話で締めくくられた。最後まで聴衆を引き付ける興味深い面白い講演でした。
以上
(田中資長 記、 西村時雄 監修)